いつかはアメリカ? by Pill Gates

いつかはアメリカ? by Pill Gates

No.4 Kazuma Izumi 前篇


今回は実際にアメリカにチャレンジしたアングラーのお話をご紹介します。いままで、いろいろな方々がアメリカのトーナメントに参加しました。吉田幸二さんもその一人です。吉田さんは確か1987年から3年間、メガバックスに出場したと記憶しています。

ちょうどその頃、HMKLの泉和摩さんもアメリカのトーナメントに挑戦を始めました。やはり1987年でした。いまから約30年前です。

泉さんは1955年、会津若松市に生まれました。中学生のころからバスフィッシングとルアーメイキングに没頭し、18歳でオリジナルミノーを製作、HMKLを立ち上げました。1974年のことです。ですからHMKLは今年で創立42年目を迎えたわけですね。それだけでもスゴイことです。

そんな泉さんがアメリカに初めて行ったのは21歳の時、すでにルアー作りで収入があったので70万円を貯めて渡米したのです。1か月ほどテキサスでバス釣りを楽しみ、小さなトーナメントにも出たりしました。

1985年にJBTAがスタートし、同時に参戦した泉さんは翌1986年、同組織の初代A.O.Y.に輝きました。

ちょうどその時、ローランド・マーチンの招聘などに関わったアーカンソー在住の日本人牧師と知遇を得た泉さんは、B.A.S.S.のインビテーショナルに2枠の出場枠があることを知り、徳永兼三氏と参戦しました。

ニューヨークのセント・ローレンスリバーとオンタリオ湖で行われたニューヨーク・インビテーショナルが最初の試合でした。もちろんノンボーターでエントリーフーは800ドルほどだったといいます。

そこで泉さんは本場のメジャートーナメントのあまりの面白さに感動して、結局アメリカに居続けることになってしまいました。

「これが本当のバスフィッシングなんだ!」

泉さんは心の底からアメリカのトーナメントに魅せられてしまったのです。

最初の一年間は日本とアメリカを往復して、インビに出ていました。当時は14万円ぐらいで日米を往復できたみたいです。アメリカに居る間はアパートを借りて生活し、試合の合間には英語の学校に行き、向こうのクルマの免許をとったりしたようです。

「とにかく英語ができないと生きていけないので必死でした」

そのうち、アパートの家賃がかなり高いことに気付いた泉さんは家を買ってしまいました。ダラス空港近くの300坪の家を約一千万円で購入したのです。もちろんローンです。これでボートも置けるし、アメリカ生活の基盤ができました。

img_2599ダラス郊外のレイクフォーク

実は泉さんがアメリカに滞在できた大きな理由は、あっちでルアーを製作できたこと。HMKLを製作して日本に出荷しており、収入があったのです。それがトーナメントに参加する資金となっていました。買った家は工房として機能していました。

まだ日本でスピナーベイトのスローローリングなどの概念がなかった時代に、ダイナモの1ozをコツコツと作っていたのです。多い時には一か月に2000個のダイナモを作ったそうです。全部一人で行ったといいます。

ダラスの自宅で来る日も来る日もルアーを作り、試合が近づけば会場まで出かけて行ったわけです。でも、泉さんは今になって、仕事なんかしないでもっと釣りをすれば良かったと後悔もしているそうです。収入があったから4年間もアメリカのトーナメントに出場することが出来た。しかし釣りをする時間を犠牲にしなければならなかった。これは大いなる矛盾だったわけです。 つづく

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