No.5 Kazuma Izumi 後編
泉和摩さんは1987年から1991年までの4年間、B.A.S.S.のトーナメントにフル参戦しました。日本人としては初です。それを可能にした環境はいろいろあります。独身だったこと、資金力があったこと、2年目からはレンジャー、マーキューリー、ハミンバードなどからサポートを受けられたことなどですが、泉さんが一番大きかったと語るのが「ヤル気」です。
「何よりも釣り、そしてトーナメントが楽しくて楽しくて……面白すぎて苦労は全然感じませんでした。ひとことでいえば情熱があったんでしょうね」
最終的にはクラシックですか!
日本人がアメリカでトーナメント生活を送ろうと思ったら、いくつものハードルがあります。言葉、食事などは想像がつきますが、アメリカでは移動が恐ろしく大変です。日本の比ではありません。一日千マイル走ることも珍しくないのです。千マイルというと約1600km。東京博多間が約1000kmですから、推して知るべし。
泉さんはそんな超長距離移動も一人でこなしました。モーテルなどに泊まらずにぶっ通して運転したそうです。
「運転していて二回、日の出を見たこともあります」
要するに夜出て最初の日の出を見て、そのまま朝、昼、夜、夜中と運転を続けて、そして二回目の日の出を見たということでしょう。それほどアメリカはデカイのです。
「それでも楽しかったなー。辛いことは事実ですけど、それを乗り越えるだけの価値がありました」
泉さんは遠くに目をやって当時を懐かしみます。
そんな泉さんが4年間のアメリカ・トーナメント生活で学んだものは……ズバリ「基本」だったといいます。
1989年にラリー・ニクソンがやって来て、琵琶湖でスプーンビルミノーを駆使してプリスポーンの魚を釣り上げ日本中に衝撃を与えたことがありました。当時は日本人の誰もが知らなかった釣りでした。
当時、泉さんはアメリカ滞在中で、その出来事は知らなかったわけですが、後で聞いて「そんな釣りはアメリカでは当たり前ですよ。ローカルのおじいちゃんでも知っています」と語っていました。
だからラリー・ニクソンもシークレットという意識はなく、極めて当たり前にその釣りを行ったのです。
1997年に泉さんは生野銀山湖で行われたJBワールドシリーズの初戦に勝ちました。パターンはいわゆるミノーのドラッギングだったのですが、それこそ泉さんが強調する「基本」。
「プリスポーンの時期には魚の居る水深に合わせてジャークベイトを引く。これは基本中の基本です」と解説してくれました。
アメリカのトーナメントエリアは桁違いに広く、それゆえ全部を回ってプラをすることは不可能です。だからシーズナルな基本を学ぶことが大切なのです。泉さんが4年間のアメリカ生活で学んだことは、いってみれば呆気ないほど簡単な言葉「基本」の二文字だったのです。
「アメリカにはもっともっと深いバスフィッシングの世界があります。可能ならばそれを体験することをお勧めします。日本での釣りも根本から変わると思いますよ」
泉さんがこう結論付けたアメリカ……こりゃーいつかは行ってみるしかないですね。
こんな人も「いつかはアメリカ」です?